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 馬寄(マイソウ)の地名の由来と馬寄踊りの起源とは同じ神功皇后伝説に起源している。それによると仲哀天皇のお后神功皇后が三韓(今の韓国)と戦をするために九州の9か国に勅命を出して軍馬を集め訓練をされた土地であり馬寄と名付けられた(古城傳)と言い伝えられている。その時、村人たちが皇后様の旅情をお慰めしようと、御前で踊ったのが馬寄踊りの始まりと言い伝えられている。
 この言い伝えが事実とすれば馬寄踊りの起源は、今から千数百年も前にさかのぼる事になるが証明する記録はないようだ。だが、今残っている口説き節の文句などからみても江戸時代には盛んに踊られていたことは間違いない。
 江戸時代の大里地区は新町、馬寄、原町、柳、大里、二十町の6部落に分かれ、どの地区でも盛んに踊られていたようだ。地区によって振りや口説きに多少の違いはあったようだが、何れも馬寄踊りまたは馬追舞と言っていた。馬寄踊りの名の由来も馬寄が最も古い土地であり、その昔は馬寄がこの地区の中心的な部落であったためだろう。
 記録によれば踊り子の出で立ちも髪は桃割れで、豆絞りの手拭を格好良く被り、派手な揃いの浴衣に白足袋、カッポン下駄を履いたという。太鼓になったのは近世になってからで、その昔は酒樽を叩き、囃しは今と同じ「ヤットコマカセーェヤートエー、ショレーショーレショイトコショイショイ」だった。
 踊ったのは盆だけではなく、雨乞い、村祭り、日籠りなど村人が詰まる席ではどこでも、いつでも踊っていたようで、戦前までは続いていた。
 昭和3年には当時の門司市献穀田のお田植祭に馬寄踊りが献上され注目された。その翌年には宮内省の大礼使楽士一行が九州視察に来門の際、わざわざ馬寄踊りを検覧し踊りの一部が宮内省主基斉田お田植舞の参考資料として取り上げられたと伝えられている。
 
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